2014年04月21日

天国と地獄のはなし

天国と地獄のはなし

沖縄リバイバルチャーチで強く植えつけられた思考が

『イエス・キリストを信じ洗礼を受けた者は、天国に行ける。』

対局的に言えば、

『洗礼を受けなければ、地獄行きだ。』なのです。



自分自身が洗礼を受けていても、伴侶や家族が未信者であれば

その家族は、死後に地獄へ落ちるというのです。


だから、沖縄リバイバルチャーチでは、病床洗礼という

死の瀬戸際の人を目の前に、家族の意思による儀式的な洗礼式を病室で

執り行うことが多かったです。


その後、礼拝・祈祷会で奇跡の救いと賞賛されていたのです。



そして、もう1つの特徴的な思考は『罪=地獄』

これは、悪いことをしたら、地獄。。。まー基本かもしれませんが。

でも、何もかもを天国と地獄の感覚で捉えることがおかしいのです。


私の体験からすると、クリスチャンのほうがよっぽど罪深いのです。

罪を罪と知って犯す罪のほうが、よっぽど罪深いのです。

それを皆そろって、あらゆる手段で正当化します。


イエス様のような生き方がしたいと言いながら、

上から目線が基本姿勢で、兄弟姉妹とささやきながら

心の中では、あの人より自分のほうが恵まれている、捧げている、

奉仕している、伝道している、牧師に好かれていると思っています。

そういう、プライドだけが一流セレブ並なのです。

(過去に自分もそういう生き方でしたので、わかります。)



隣人愛???

あったらこんなことにはなってませんから。



沖縄リバイバルチャーチを離れた当初、

行ける教会がない = 礼拝できない = 地獄

という考えが簡単に捨てられませんでした。

今振り返ると、あきらかに病気です。



世のため、人のためという言葉が昔からありますが、

盛山さんが仰っていた言葉があります↓

『自分のため、家族のためは当たり前、人のためにどれだけできるかなのです。』

んー、子供のことだけで頭がイッパイになっている自分が少々恥ずかしくなります。


結論、世のため、人のため、精一杯生きた人は、宗教関係なく

天国に行けるのではないでしょうか!


信仰はいらないと言っているのではございません。

信仰とは、強制されるべきものではありません。

心で知るものです。


悪魔にやられると叫ぶ人がいます。

悪魔は、あなたの心です。

向こうから一方的にやって来るものではないです。

悪魔に攻撃される人は、される要素があるのでしょう。


神様をほっぽって、悪魔のことばかり考えてもいいことあるはずがない。

沖縄リバイバルチャーチの信者さん、少し一緒に考えてみませんか。


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この記事へのコメント
新興宗教によくある「私たちは○であの人たちは×よ。」です。仏教系でも神道系でも新興宗教はみなこの教えがあります。
信者=○=天国に行ける
非信者=×=地獄に落ちる
ただし、これは宗教改革でプロテスタントが誕生した時に生まれたあだ花であるといえます。
正教会では非信者の葬儀専用の式文があり、列席者は司祭とともにその人が神の御手に抱かれるように祈ると聞いたことがあります。
カトリックでは(今はあまり強調はしないそうですが)煉獄があり、煉獄のための祈りというお経が昔からあるそうです。
プロテスタントは白か黒かの二者択一を(程度の強弱はあれ)決定させる傾向があり、グレーを許容したがらないように感じます。そのせいか非信者を余裕をもって受け止める発想が乏しいのかもしれません。「洗礼を受けて教会に行く人生を歩まなかった方々には第三の道がありますので心配しなくていいですよ。」と示す優しさに欠けているのかもしれません。
Posted by 梨花 at 2014年04月21日 20:38
梨花さん、こんばんは。

今回の文章は、さすがに多少のバッシングはあるかと思っていましたが、梨花さんのコメントを読んで、沖縄リバイバルチャーチでの天国地獄論に愛のない信仰の強制だったのだと再確認できました。
ありがとうございます。

以前に、ORC脱会後、アッセンブリーの牧師に、どんなに素晴らしい人でも、洗礼を受けていなければ、救われないのか?と訪ねたとき、『救いはない』断言された記憶があります。

だから、梨花さんの言う
”非信者を余裕をもって受け止める発想が乏しい”
が、とてもしっくりきました。
Posted by ミサト at 2014年04月22日 23:06
文書、読ませてもらいました。

しかしこれはリバイバルチャーチと限ったことではなく、沖縄の牧師会の問題教団でも幾つか似たようなことが常に起こっていると思われます。

信徒=弟子(パシリ)と見てる教団も実は沖縄では残念ながら大半だと私は見ております。

特に実践神学校などの資料を見てご理解できると思いますが、今の教団の闇商工会はつねに信徒に 信仰の虐待 (神様の名を悪用して、神様の言葉を借りて多額の献金の貢ぎの強要、御言葉を並べての信徒に対する操り行為など) が常に行われていてお金の量=信仰の量として天びんにかけさせ、さらには牧師の言うことを聞くことは神様の命令として信徒に教え、逆らえば「地獄」と言うように信徒の方々を心理的恐怖を植えつけてるのが元カルト教団で礼拝を見てきた私の見解でありますね。

いわゆる闇商工会の牧師連中は聖書と神様を「人を操る王の剣」と勘違いしている感じがしますね。

ちょいと理解が難しい部分もありますが、たとえとしては出来るだけ表現に合うようにはしましたのであしからず、
Posted by バラバ13 at 2014年04月23日 14:31
遠藤周作氏の未亡人順子さんのエッセイにあった話ですが、観音様の熱心な信者だった順子さんの母親が亡くなったあと、神父から「お母さんは天国にいっています。」といわれてほっとするくだりがあったのを思い出しました。
神父ですら彼女のお母さんが本当に天国に行ったのかはわからないと思います。ただ神父は「あ、これはお母さんが天国に行けたのか心配しているのだな。」と察したのではないでしょうか。「お母さんは天国に行っている。」と神父がいえば、彼女は「神父がいっているのだからそうなのだろう。」と安心して枕を高くして眠れるというものです。
最近は新興宗教の中でセカンドチャンスという教義が新たに生まれたと聞いています。新興宗教もこの問題については長らく頭を抱えてきたのでしょう。もちろんこのセカンドチャンスを巡って、新興宗教の中では喧々諤々です。
しかしこんな教義を新たに作るなら、煉獄で対処すればいいものをと思います。煉獄は宗教改革とともに葬ったから、今更使用するのは癪だということなのでしょうか?それならいっそのことカトリックに宗旨替えしたほうがまだわかると思いませんか?
非信者の救済一つとっても、やはり正教とカトリックはだてに年を取っていないと思います。長い歴史の中でいかにこの問題をクリアできるか?と考えに考えぬいた結論が、西は煉獄および煉獄の人のために祈る(今は教会の外に救いなしという考えを廃したので煉獄も強調しなくなったそうです)、東は煉獄を認めない代わりに定型の式文を作成し、神父とともにみんなでその人を天国に入れてやってくれと頼むというやり方が誕生したのです。
カトリックと正教に柔軟さや度量の大きさを感じます。プロテスタントはまだまだ未完成な部分が多いので、カトリックと正教から教わる立場であると思います。
Posted by 梨花 at 2014年04月23日 20:22
梨花さん

いつも興味深い内容で、読むのが楽しいです。
私にはない知識なので、そういうことをちゃんと知っている人がいるのに、驚いているのが正直なところです。

梨花さんは、沖縄の方ではないと勝手に思っておりますが
沖縄にいらっしゃたときは、是非ご連絡ください。

とってもお会いしてみたいのです。
ずーずーしいですが、素直に会ってみたいのです。
Posted by ミサトミサト at 2014年04月25日 17:07
そのようにおっしゃっていただけて本当にうれしいです。私もいつかぜひお会いしたいです。
非信者の救済の可能性については、カトリックが今のミサト様には一番わかりやすいように思います。
昔は「教会の外に救いなし」だったので煉獄をどうしても必要としましたが、第二バチカン公会議以降はその考えを改め、ほかの宗教にもみるべき点があるという考えになり、煉獄の考えも必要としなくなりました。
おすすめなのは晴佐久神父でしょうか。神父の説法はカトリック多摩教会のサイトに出ています。時間のある時に最初から(2011年から)じっくり読まれると、非信者の救いの可能性についてわかるようになるのではないでしょうか。
Posted by 梨花 at 2014年04月25日 19:22
フェイスブックをのぞいてこんなコミュニティを見つけました。
沖縄のカルト教団のイベント情報です、

https://www.facebook.com/okinawa.christianevent
Posted by バラバ13 at 2014年07月06日 15:01
 
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